高山流白兵抜刀術・試斬


【高山流白兵抜刀術は継承者が三世として「海軍高山流白兵抜刀術」の流名を以て別団体で指導されておられます。

同団体にかかる指導及び段位、免状等の取得については同団体にお問い合わせください。】

当道場では高山流白兵抜刀術を稽古し真剣の使い方を修行しております。

古来、剣術や柔術の道場では、剣術道場は柔(やわら)と称して柔術を稽古し、柔術道場では剣の理合を学ぶべく剣術を稽古し、その両方ともが真剣の扱いに精通するべく試斬稽古を行っていました。

 

※ 参考 制剛流居合は新陰流諸流で稽古されているが、元来は制剛流という柔術の流派が体づくりのために修行していた居合の形である。

 

 試斬稽古は、高山政吉翁(明治32年生、1899-1972)が創始し旧日本海軍へ起草した高山流白兵抜刀術で行っております。

 他のページで記した通り、東雲道場では、

  合気は剣術から生まれた

を技法理念に稽古、修行を行っております。

  当道場で合気習得をするうえで、なぜ高山流白兵抜刀術で試斬稽古を行うのかを近代日本における白兵抜刀術の変遷を紹介していきながら紹介いたします。

 介者剣術は、平安時代の武士の台頭から戦国時代を経て、その理合が練り上げられていきました。

しかし徳川家康により天下統一がなされ元和偃武を以て、その存在を制約されることとなり、介者剣術は鎧を着装しない素肌剣術へと変貌しました。

素肌剣術は一例をあげると「直立身位」つっ立つる身の位、もしくは、つったった身の位等と呼ばれ、戦場で鎧を着装して腰を下ろして戦うことが無くなり、腰が高くなった分、早く相手の剣に反応しようとしました。

鎧を着けて戦う時に腰を下ろすのはひとえに、敵の攻撃が剣の打突のみではないからです。

鎧の上からでは致命傷に至ることは困難なので、敵は白刃に打ち込んだ後に、鍔迫り合い等で押さえ込んで制圧しようと来てくるのです。

ですので、相手の攻撃に負けて転倒しない等のために自然に腰が低くなったのだと考えられます。

柳生新陰流兵法目録事

 

介者剣術では、相手を制圧したうえで首を取るところまでを勝敗の想定であったところが、江戸時代では木刀、竹刀で打突されれば勝負あったとして終わるようになりました。

こうなると自然に鍔迫り合い、足掛けや、相手を片手で掴んだり、相手の剣を奪うなどの行為は不作法とされて行き、剣術の中での身体操法の多くが失われて行きました。

このようにして白兵戦から離れた場で剣術の優劣を競う中、介者剣術の理法は幕末の明治維新を以て竹刀剣道に姿を変えて行きました。

 その剣術の変貌は、フランス式等の西洋軍隊方式を導入した新政府の軍隊においても同様でした。

当時の新政府軍は、多くは剣術未経験者の平民から徴兵されており、軍事顧問として明治政府に雇用されたフランス式の軍隊調練を行う外国人教官等は自然、日本刀を用いる剣術を指導することはありませんでした。

 そんな中、1873年(明治6年)に 陸軍兵学寮戸山出張所が設置され、1874年(明治7年)に陸軍兵学寮戸山出張所が陸軍戸山学校と改称される等、明治政府は軍隊の近代化を図り、日本軍は

  明治7年   台湾出兵

  明治10年   西南の役

に直面しました。

 西南戦争において薩摩士族に白兵戦で遅れをとった政府軍は、軍の後方にあった警視隊(当時の警察官の部隊)より剣術の上達者を抜粋し、抜刀隊を組織して田原坂の戦いに投入しました。

 結果、抜刀隊も無傷では済まなかったものの戦局が大きく動き西南戦争は西郷隆盛の死を以て終局したのです。

西南の役 田原坂の戦いを描いた錦絵

このような白兵戦における抜刀術の改革の必要性から明治12年、警視庁に撃剣世話掛が創設されました。

これに、梶川義正、上田馬之助、逸見宗助、、真貝忠篤、下江秀太郎、得能関四郎、三橋鑑一郎、坂部大作、柴田衛守などの剣客が採用され、これらの剣客によって、抜刀術の形である

 警視流の形 

立居合

    前腰(浅山一伝流)

    無双返し(神道無念流)

    回り掛け(田宮流)

    右の敵(鏡心明智流)

    四方(立身流)

 等が制定されました。 

 その後、

   明治27,28 日清戦争

の際には、警視総監の園田安賢(自らも抜刀隊として西南戦争に従軍)は、西南戦争に功を成した抜刀隊を再び編成して戦地へ派遣したい旨の建言書を、陸軍参謀次長であった川上操六に提出しましたが、川上は

 今頃こんな事を考えているのか。

 日本に軍制が布かれてから、もう20年以上も経っている。

 日本の軍隊は、そんな幼稚なもんじゃない。

 抜刀隊なんていらん。

等と抜刀隊編成案を一蹴しました。

 また、西南戦争に従軍していた

 津田教修 

1850年(嘉永3年)- 1908年(明治41年))津田一伝流剣術家。】

は、西南戦争に従軍した経験等から白兵戦における抜刀術の重要性を説き、

  明治25年 

  陸軍戸山学校教官体操科長

に就任した後、陸軍戸山学校でそれまでフランス式であった剣術教範を改正することに努め、日本の剣術や槍術をもとにした軍刀術、銃剣術を提唱しました。  

しかし当時のフランス式軍事教練の信奉者であったとされる寺内正毅(陸軍大臣、内閣総理大臣等を歴任)と対立して津田の改革案は達成されませんでした。

 そのようななか、

   明治37,38  日露戦争

を経て銃砲火器が戦略の要となっていく一方で、同装備が劣勢であった日本軍は野戦における白兵戦が戦局を左右することを認めてフランスサーベル式の影響下にあった軍隊剣術が再検討されていくのでした。

 1912年(大正元年)

  戸山学校長 林 二輔

  両手軍刀術の制定

に着手し、従来の剣道や古流剣術には道場のような平坦地でしか通用しない技があるため白兵戦では通用しないとして、

  学生隊長 二宮久二

 に両手軍刀術の研究をさせる等しました。

    明治27年に陸軍が制定した剣術教範 

 片手軍刀術の刀法が記載されている。

 明治40年に陸軍が制定した剣術教範 

 日露戦争後にあっても 片手軍刀術の刀法が記載されており、両手軍刀術の記載は無い。

 この時の陸軍大臣は寺内正毅である。

 明治43年に提出された「剣術教範改正要領ノ件照会」

 項目十二には、

「各種の剣術は各兵種の要求に適応せしむると同時に特に徒歩佩刀者の為 両手軍刀術に関しても詳記すること。」

とある。

 そうして

  1915年(大正4年)

  「陸軍剣術教範」の改正

で両手軍刀術が制定され、従来の片手軍刀術は騎兵科のみで訓練されるようになり

  1916年(大正5年)

で全国の連隊・大隊より1名の士官学生を戸山学校に入校させて両手軍刀術の教育が実施されるようになりました。

 その後、

  1934年(昭和9年)

  皇紀2594年

に陸軍はこれまでのサーベル式に代わって陣太刀式拵えの

  九四式軍刀

   透かし鍔

   佩環2、第一佩環固定

   第二佩環は着脱式

   騎兵科は第一佩環のみ

を制定しますが、軍装の改正が無かったことから既存のサーベル式を所持する将兵も混在し、しばらくの間はサーベル式との混用時期に入ります。

 その後

   1938年(昭和13年)

   皇紀2598年

には服務改正により軍装と共に軍刀の仕様も改定され、意匠はほとんど変更の無い

   九八式軍刀

   佩環1

を制定しました。

 これまでのように近代化した日本軍は、白兵戦の位置づけが変化する中にあっても、前線に配備される将兵の最後の砦となる白兵戦における抜刀術の改革を推進し、両手軍刀術を採用し、並行して軍刀自体の改良にも努めました。

 

 

 大正4年に提出された「剣術教範改正理由書」

 改正一般の要旨として、

項目2に「両手を以てする軍刀術の方式を採用し其方法を記述し以て国軍の実情に適応せしめたること。」とあり

 改正要点及び理由の概要 総則として

項目1に「両手軍刀術は我が国独特の武技にして渾身の気力を発揮するに適し且国民教育との連繋を密接ならしむる為、乗馬戦を以て主要戦闘とする騎兵を除き全兵種に之を採用せり。」とある。

 大正4年に両手軍刀術が陸軍で採用され剣術教範に掲載された。

 片手軍刀術の記載もあり、片手軍刀術は「馬上に於ける軍刀用法の基礎を作るに在り。」とある。

 以上のような改革を経て誕生したのが両手軍刀術の操法だったのですが、そこにはまだまだ改革の余地がありました。

 高山流白兵抜刀術の創始者である

  高山政吉(たかやま まさきち)

 (明治32年生、1899-1972

【大正15年舞鶴中学校剣道教師】

【昭和4年海軍舞鶴機関学校剣道教師】

は軍の指導する従来の軍刀、銃剣術の操法や理論に疑問を呈し、

  昭和4年 高山翁30才頃

  銃剣術に関する予報発表

をなしましたが、軍部からは

  物好きの火遊び

と一蹴されました。

 これによって高山翁は、前線において実戦刀法を研鑽することを決意し、機関学校の剣道教師である軍属の身で出征を願い出ましたが却下されました。 

 その後、昭和12年支那事変が勃発したことから、高山翁は二度目の出征を出願し、ようやく

  昭和12年 高山38才頃

  第二次上海事変に伴い上海派遣軍に随従して出征

し、戦場に身を置き実戦刀法を研鑽したのです。

 その出征中に高山翁は実戦刀法理論を確立し出征先の南京城内において

昭和13年 起草案 近代戦用白兵抜刀術

を執筆し、その実戦刀法理論は軍に採用されるに致りました。

高山翁の説く近代戦用白兵抜刀術とは (抽出)

   以下高山翁曰く

 

 近代戦場では

受けるの外すのいうが如き業は全く無く只飢えたる鷹の如く敵を倒す一念で驀進して行って、そこに妙境が生じて必死三味の裡に妙味

がある。

 

  本術は

白兵戦闘斬撃を主眼とし機に臨み変に応じ実用自在なること肝要

である。

 

  特に

業表面の変化ではなく即応即決の的確なる精神判断の変化

を要望するものであり、

業の技巧を主とせざる

由もまたここにある。

 

  当法は

業の技巧に走らず

剛健なる精神力的確なる判断力の養成

に務め、あいまって

実用に適する体の運用正確なる斬刀刃筋に重点を置く

ものである。

以上の高山翁の説くところは、抜刀術、試斬の他、武芸だけに当てはまるのではなく人の日々の行動、思考のあり方にまで汎用出来るものではないでしょうか。

 試斬は

   斬れればよい

というものではないということです。

  高山翁の言う

体の運用正確なる斬刀刃筋

剛健なる精神力と的確なる判断力

のうえに発揮され、その精神力と判断力は

抜刀の刹那にあらわれる

ものなのです。

  私は今でも合気の師が所有する脇差を持った時のことを覚えています。

  これは生まれて初めて日本刀を手にした時で、私は今でも

体と魂が小刻みに震えた

という感覚を覚えています。

 その感覚の意味を知りたくて自分でも日本刀を買い求め、縁あって高山流白兵抜刀術を経験することになりました。

 高山流白兵抜刀術の師である前記継承者の指導は、斬れたか、斬れないことに固執せず、

   今のは体がこうなっていた

   この時は気が上ずっていた

等と剣体一致を目指して指導してくれる素晴らしい指導で、決して

   斬れれば良い

という指導ではありませんでした。

 試斬の感覚は、抜刀の後ははっきりした記憶が無く、

   ああしよう、こうしよう

という考える暇が無く、残心に入って我にかえれば、確かに巻藁を截っていることに気づきます。

 截ったのは、自分に他なりません。

 では截った自分とは、何なのか。

 それは日常の記憶や意識、意志等では認識出来ていない自分なのです。

 自分では認識出来ていなくても、本当は自分自身の魂(魂魄の魂等の意味)は知っているのです。

 私の魂を震えさせた正体はそれかも知れません。

 自分の内側にある自分を外側へ出して、自己認識させてくれる媒体になるものが

    刀

ではないかと思います。

 人によれば、それは刀ではなく、

   ・ギター等の楽器

   ・陶芸の粘土

   ・キャンパスと絵の具

   ・半紙と筆

   ・ノミと材木

等かも知れません。

 

 例えば、もし真剣を持って

   怖い、恐ろしい

と感じるのは、刀その物ではなく、刀を媒体として外界へ姿を現そうとする自分自身ではないでしょうか。

 刀を手に持って思うのは、

     自分や他人を傷つけるかもしれない

という強迫観念に近い感覚ではないでしょうか。

 でも刀には意志はありません。

 人間が動かさなければ、永久に動かないのです。

 手に持った時に感じているのは、

自分がこの刀で物や人を傷つけるかもしれない

事故や過失ではなく、傷つける衝動がおこるかもしれない

等ということではないでしょうか。

 だから

刀を通じて現れる自分自身を乗りこなす修練

を積む必要があるのです。

 刀を扱い修練を積むことで、

絶対に他人や自分、

物を傷つけない自分抜刀すれば如何様にも目的に沿って截れる自分

が現れた時こそ自分自身に不安を覚えることなく、自己確立、安心立命が出来ると思います。

 そうして日常で認識出来ない自分を発動させることによって、

使わずに使う境地に辿りつける

のでないかと考えて修行を積んでおります。

 当道場では、この

使わずに使う境地

が高山翁の説く

剛健なる精神力と的確なる判断力

ではないかと考え、白兵抜刀術の試斬稽古を積んでおります。

 この令和の世に、

斬れる、斬れないことばかり言うのは、白兵抜刀術の修行の目的において、それ以外を知らないか、それ以外を見出せないのか、理解出来ていないからで非常にもったいない

と思います。

 この

剛健なる精神力と的確なる判断力

並びに

使わずに使う境地

が備われば結果はあとからついてきます。

 目的を間違えると、修行の道のりは迷走にしかなりません。

高山翁の著した「近代戦用白兵抜刀術」には高山翁が考案した白兵抜刀術の形数十本がおさめられております。

初伝 上巻 9

うち、最初の3本に白兵抜刀術の特徴がよくあらわされており、高山翁の非凡なる剣才がうかがわれます。

・一本目 正一刀(せいいっとう)

・二本目 右一刀(みぎいっとう)

・三本目 左一刀(ひだりいっとう)

 これら三本は

一本目に正面の敵

を想定し、

二本目には右側面の敵

を想定しております。

 そして

三本目には左の敵

を想定しており、二本目、三本目で左右の敵を袈裟斬りで斬るのです。

  古流で例えるならば新陰流の猿廻や斬釘截鉄に似た刃筋であり、当道場の剣の基本歩法であるジグザグ袈裟そのものなのです。

 ジグザグ袈裟は人中路の間に敵を置き、衆敵して戦う理法と、股関節の可動と呼吸と手の内で剣を操る稽古です。

 これら三本の型の袈裟截りは、一見すれば不合理な刃筋に見えますが、これが最も平面上の広角に存在する敵を斬るにふさわしい身体操法となるのです。

 北辰一刀流を修めた師である内藤高治翁から薫陶を受けた高山政吉翁も、古流の技法を修められていたと想像されます。

 現に高山流白兵抜刀術の他の型の名称には古流の勢法と同じ名称のものも散見されます。

 前記三本の型の独特の歩法と袈裟斬りの組み合わせの技法は、白兵抜刀術が個人を敵とするのではなく、部隊である多衆を敵と想定することに特化したあらわれです。

但し書き

 文頭に記した通り当道場は高山流白兵抜刀術の継承者の指導する団体ではありません。

 長年に渡り同継承者より指導を受けておりましたが当道場は高山流の正統継承団体ではないこと及び、前記の近代日本の白兵抜刀術の沿革及び試斬にかかる随想等について誤認や齟齬がある場合は同継承者或いはその関係団体の見解とは無関係であり、当該記事にあっては当道場固有の見解であることを理解の程お願い致します。

 

 白兵抜刀術の見解等について懐疑される方は是非とも同継承者に直接指導を仰がれるのをお勧め致します。


海外からの修行者


当道場には、遠くポーランドからも高山流白兵抜刀術を習得するため来日して稽古に参加される剣士がおります。

彼は日本文化に造詣が深く、博物館勤務の経験も持っておられ、日本文化、武術を研究するなかで古流剣術や高山流白兵抜刀術を知り、本場日本でそれらを体験すべく来日されました。

彼とは三年越しの連絡のやり取りの上、9日間の日本滞在ではありましたが、彼の真摯な武術への取り組みに、ただただ感服致しました。

彼は帰国した後も武術に関して現在も当道場と連絡を取り合っており、再来日して稽古を希望されておられるので、楽しみです。

   

                                    (令和2年5月記)