当会は大阪府堺市で合気の修行を志す有志により結成された会です。
当会では、
・「体」姿勢、呼吸法、歩法、色々な
身体操法や体内操法
・「剣」合気のいしずえとなる介者剣術
(介者剣術は以下で説明)
・「柔」型稽古でない柔術
による「体」「剣」「柔」の三位一体の稽古によって体を練り合気の修得を志します。
「体」
北野三樹雄師範が様々なボディーワーク、整体、武術を基に考案されたセンタリング呼吸法を基本として、
・呼吸法
・呼吸によって派生する動作
・その動作から派生する体操
を稽古します。
「剣」
合気は古来日本の合戦剣術である「介者剣術」から生まれと考えられています。
ます。
「介者剣術」は江戸時代に入り合戦が無くなり甲冑を着けない「素肌剣術」となりました。
型稽古中心の古流剣術、居合各流派
打突で勝敗を決する現代剣道 等の「素肌剣術」とは違い、
「介者剣術」は刃(やいば)を相手に当てたところから
付ける
入れる
抜く
の
体内操作による合気の発動
により相手の攻撃を不能にすることを目的にします。
つまり、「やめ!」の声がかからない環境で練り上げられた技術なのです。
この「介者剣術」の「剣」の稽古で身体、意念、呼吸を練り上げます。
「柔」
柔術の稽古ですが、
〇〇投げ
〇〇固め
等の型稽古は基本的に行いません。
なぜなら技や型は
「極まり手」
だからです。
つまり相撲の「極まり手」と同じく、技がかかってからしか名前が当てはまらないので、型稽古のしようがないのです。
例えば「片手捕り」という技の名前があれば、相手に頼んで毎回同じように正確に掴んで貰えば話は別ですが、相手の掴む位置、高さ、クセなどにより、同じかけ方の技は通用しないのです。
一つの技につき何通りもかけ方を覚えても結局それは
記憶の抽出作業
に終わってしまい、合気ではなくなってしまいます。
「体」「剣」で練ったものを「柔」に昇華させるために、
「記憶」ではなく「機応」する
ために相対での稽古を行います。
ここではの「体」「剣」「柔」の基本的な稽古メニューの一部を御紹介します。
「体」
〈体操〉
7段階呼吸
ロッキングチェアー
天地人
デンデン太鼓
亀と鳥
六方円 など
〈歩法〉
スケーティング
ジグザグ
鉄球運び(鉄球は運びません)
玉叩き
棒回し
など
体内の中心と伸びを内観し、本来の中心軸の感覚を養います。
鉄球を両手に持っているイメージで中心軸を崩さず、小股で踵を浮かさないように進む歩法です。
この感覚が普段の姿勢、動作に無意識に発動出来るように稽古します。
後頭骨、首、肩、肩甲骨、背中、腰椎、仙骨が正しく並べば、鉄球の重みは地面にアースされていきます。
太極棒を呼吸と体内操作で操作し、視点、意識とともに連動させて、動きの基本となる動作を身につける稽古をします。
この動きが「剣」の動きの基礎になっていきます。
剣道でいうところの「雑巾を絞る手の内」ではなく、手首、肘、肩、首、鼠径部等が人中路に沿って呼吸と正しく連動し、力を入れずとも自然に中心軸が伸びて力を循環させる。
〈剣の基本〉
七刀
〈剣の歩法〉
直進
正面打ち
回し打ち(正面、袈裟)
捩り込み
一打三足
〈木刀や袋撓を使った相対稽古〉
合し打ち
相架け
疾雷刀
転身打ち
など
「体」の稽古メニューで培った基礎動作で剣を扱い、呼吸で自らの重心を操作して前進します。
床を蹴ることなく、重心が動いて体が自然に前へ移動するようにします。
相手の斬激を瞬時に無力化する「合い架け」は合気の要素が多大に含まれています。
相手の剣を弾き飛ばさずに、自分の剣にくっつけるように心掛けます。
袋竹刀で組太刀稽古をします。
相手の剣を弾かずに、くっつけて崩します。
これが
付ける
という技術です。
相手の剣をくっつければ、自分との緩みをとっていきます。
緩みがとれた時、自分の意念に沿った力の循環を相手に流すことが出来ます。
これがぶつかる作用ではなく、
入れる
という技術です。
自分の意念に沿った力の循環を入れられ動けない相手のバランスを呼吸と連動した体内操作で一気に崩すと相手が飛ぶ。
相手を
飛ばすのではない意識と体の使い方
です。
掴み手はずし
合気上げ
合気斬り
両手捕り歩法
攻撃部位のみ限定して相対稽古
など
上記の
片手捕り1から2
と
片手捕りAからD
は技の分類で言えば、片手を捕られる攻撃を受けた時の技なので両方とも
片手捕り
という名前です。
しかし、技のかけ方がまるで違います。
なぜならば、相手によって
掴む力
掴む方向
癖
等が違うからです。
それによって機応すれば、自ずから形は違うものになります。
ですから
形を覚えてはいけない稽古
をするのです。
胴四つ捕りは、相手を押さえるのではなく
相手の力を抜く
技です。
相手の腰が崩れるのに合わせて、上半身が前へ傾いているだけで、相手を押さえているわけではないのです。
相手は完全に腰が崩れてぶら下がっている状態です。
「剣」の歩法が生かされて、相手の片腕にこちらの全身の力が循環して流れ込み、相手が崩れてしまう。
「柔」の稽古は以上のように、攻撃方法があるだけで
〇〇投げという技の形
がありません。
また大抵の技は
古流柔術のような関節の逆を捕るよ
うな関節技ではない
のです。
逆関節をとるのは、痛みを与える目的の他、
相手の関節がそれ以上に曲がらないよう
にして遊びをとる作用
です。
東雲道場では、北野師範が考案されたセンタリング呼吸法等の合気修得カリキュラムにより体内操作を訓練し、自分と相手との緩みを体内操作でとっていく技術の向上をモットーにしておりますので、安易に相手の逆関節をとりません。
むしろ合気が対象物に向かう単なる一方向の力のベクトルではないことが体感出来てくれば、逆関節をとる必要がないことに気が付き、力が流れる経路を重視するようになるのです。
合気道や大東流合気柔術では、合気を「敵と和合する愛」や「包み込む円転の理」、「敵の力を抜き無力化する技術」等で説明されます。
合気観照塾東雲道場では、
合気修行
を目的とし
・呼吸
・意識、意念
・身体、体内操作
の訓練により
・自分
・相手
・自分と相手を取り囲む環境
をありのままに把握して「気づく」ための稽古を行います。
この「気づき」を得るためには、私達はあまりにも
多くのことに
「とらわれている」
ことに「気づく」ことが必要です。
例えば、立っている時の足の指、かかと、足首、ひざ等に痛みが出れば、加齢や傷病を疑い治療を受けますが、立ち方が悪かったとは考えないものです。
また「いつも立ち仕事だから。」、「よく階段を使うから。」「若い時に無理をした。」等と言い自分の環境に責任を求めたりもします。
そうして
今の自分の立ち方には問題ない
ことにしてしまいます。
このように人は、
自分には問題が無いこと
にしてしまう生き物
なのです。
この生き物は、素直で良い生き物で
自分自身に対して
決して疑問を持たない
生き物です。
自分に対して疑問を持てなければ「気づく」ことはありません。
医師は治そうという気持ちよりも、自らの豊富な知識に囚われて本当の患者の姿が見えなくなり、親や教師は教育制度や受験、他の保護者等からの様々な要求にさいなまれて子供の声が聞こえなくなるのです。
人はそれまでの環境によって形成された自分に永住する限り、それまでの自分を基準にして外界を観察してしまい、分析してしまうのです。
そして原因を外界にだけに追い求め、自らを内観出来ないのです。
それでは合気を修得することは出来ません。
五千通り、一万通りの投げ方、かため方をいくら覚えても、それは合気では無いのです。
なぜなら
相手を対象とした動かし方
のみを記憶しているに過ぎないからです。
例えるなら、数字のパネルを見て、その回数だけ吠えることが出来る犬と同じです。
訓練によって数字と吠える回数を記憶しているが数字の概念は理解出来ていないのと同じです。
合気を修行するということは、それまでの自分に執着せずに、自分を取り巻く
自我
にとらわれることなく、身体、意識の
無常化
につとめることで森羅万象に「気づく」稽古なのです。
後頭骨が立ち、中心軸が伸びて仙骨が立っている。
膝の力が抜けて、踵が効いている。
頭のてっぺんから、両足の床の設置面まで綺麗に力がはけて流れている。
剣を押さえて斬るのではなく、全身を巡る力が地面にはけて流れるのに沿って剣が落ちる。
よって照準は既に剣を上げた時の体内にあり、剣を振って下ろすのではなく、剣が落ちる所へ自然に落ちるだけである。